オーバーハウゼン・グループ(読み)おーばーはうぜんぐるーぷ

世界大百科事典(旧版)内のオーバーハウゼン・グループの言及

【ニュー・ジャーマン・シネマ】より

…戦後のドイツ映画は,25年の歴史をもつウーファ社の解体に象徴されるように衰退と消滅の一途をたどり,東西ドイツに分割されて力を失い,西ドイツでは,それでも,ナチスの犯罪を告発し,荒廃と飢餓の現状を訴える〈瓦礫(がれき)映画Trümmerfilme〉のなかからヘルムート・コイトナー(《最後の橋》1954),次いでベルンハルト・ビッキ(《橋》1959)というすぐれた才能が輩出するが,ともにハリウッドに吸収され,そのあとに残されたものは,ベルリンでつくられていた〈労働者映画Arbeiterfilme〉とミュンヘンでつくられていた〈郷土映画Heimatfilme〉という母もの映画やメロドラマだけというありさまであった。1962年のオーバーハウゼンOberhausen短編映画祭に集まった〈ミュンヘン・グループ〉(のちに〈オーバーハウゼン・グループ〉)と呼ばれる若い映画作家たち(それまでドキュメンタリーや短編しか撮っていなかった)が,〈パパの映画は死んだ〉という標語を掲げ,〈新しいドイツ映画Junger Deutscher Film〉の創造を宣言。この歴史的な〈オーバーハウゼン宣言〉が〈ニュー・ジャーマン・シネマ〉の出発点になった。…

※「オーバーハウゼン・グループ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」