ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クマン人」の意味・わかりやすい解説
クマン人
クマンじん
「クマノイ族」のページをご覧ください。
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…ローマ皇帝トラヤヌスはここに城壁を築き,アダム・クリシAdam Clisiには皇帝の偉業をたたえる記念塔が建てられたが,この地方はその後のビザンティン帝国時代も,南ロシアや中央アジアのステップ地帯から殺到する諸民族にたいする防衛線の役割を果たした。この地を通過した諸民族にはアバール人,スラブ人,ブルガール族,ペチェネグ人,クマン人等があり,ビザンティン時代にはトルコ系のブルガール族やクマン人の独立国家がこの地方を包摂した時期もあった(ドブロジャという名称はクマン人の王朝名ドブロティチDobrotićiに由来するという説もある)。オスマン帝国のバルカン進出にともないこの地の要塞も漸次その手に落ち,1484年以降おもにシリストラのパシャ領に編入された。…
… 古代にはスキタイ遊牧民族が支配し,のちダキアの勢力下に置かれたが,ローマ帝国のダキア支配が崩れる3世紀以降はまさしく諸民族の移動・通過地となり,ゴート族,アバール人,ブルガール族,スラブ人などが相次いで来住した。11世紀には南ロシアからドナウ川下流地域にかけてクマン人の国家が建設されたが,これも13世紀のモンゴルの西征によって崩壊した。その後1367年には新興のモルドバ公国がこの地方を領有し,モルドバ大貴族の所領が拡大していった。…
…チュルク語系キプチャク族のロシア名。西ヨーロッパではクマン人Kumansとよばれた。10世紀ごろまで北西カザフスタンで遊牧生活を送っていたが,やがてボルガ川方面に移動し,11世紀には黒海北岸のステップ地帯,さらにはカフカス方面へと進出した。…
※「クマン人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
小麦粉を練って作った生地を、幅3センチ程度に平たくのばし、切らずに長いままゆでた麺。形はきしめんに似る。中国陝西せんせい省の料理。多く、唐辛子などの香辛料が入ったたれと、熱した香味油をからめて食べる。...
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