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クリステンセン,B. くりすてんせん

世界大百科事典内のクリステンセン,B.の言及

【怪奇映画】より

…すでに,大戦1年目の14年に,《ノスフェラトゥ》の脚本を書いたヘンリク・ガーレンの脚本,シュテラン・ライとパウル・ウェゲナー監督で,ユダヤ伝説による《ゴーレム》の初の映画化が行われるなど,サイレント期のドイツ映画が,怪奇と幻想映画の源流であったのは確かである。 一方,当時から,ヨーロッパの映画状況と作家をすばやく移入していたハリウッドは,ドイツからパウル・レニ(《裏町の怪老窟》1924)を呼んで《猫とカナリア》(1927)などをつくらせ,デンマークからベンヤミン・クリステンセン(《謎のX》1914,《妖術》1921)を招いて,《悪魔の曲馬団》(1926)などを撮らせた。このようにアメリカ映画は,20年代後半から30年代前半にかけて,ドイツ表現派の主要作品(リメーク)と人材を吸収したのである。…

【デンマーク映画】より

…また他方では,新興のスウェーデン映画がデンマーク映画に代わって北欧を支配するようになり,第1次世界大戦後のデンマーク映画は急速に衰弱していく。《密書》(1913)でデビューした怪奇趣味のベンヤミン・クリステンセンBenjamin Christensenは,スウェーデンで彼の最高傑作として知られる《魔女》(1919‐21)を撮り,それからドイツをへてハリウッドにいき,《悪魔の曲馬団》(1926),《妖怪屋敷》(1928),《恐怖の一夜》(1929)といったアメリカ製の〈ホラー映画〉に北欧の神秘主義から生まれたその怪奇趣味を埋没させ,また,《裁判長》(1918)と《サタンの書の数頁》(1919)でデビューしたカール・ドライヤーも,スウェーデン,フランス,ドイツをへて(怪奇映画の傑作として知られる《吸血鬼》(1932)はドイツとフランスの合作映画である)戦後になってやっとまたデンマークに戻るまで孤高の歩みを続けることになった。 その後は60年代に脚光を浴びたヘニング・カールセン(《飢え》1966,《花弁が濡れるとき》1967),70年代に登場したイェンス・ヨーゲン・トースン(《クリシーの静かな日々》1970)といった監督の名が記憶される。…

※「クリステンセン,B.」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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