世界大百科事典(旧版)内のケニア・アフリカ人同盟の言及
【ケニア】より
…彼らの民族運動は20年代に失地回復,租税軽減等の経済面から起こり,30年代には伝統文化擁護と教会を離れた教育施設設立という文化面がこれに加わる。そして44年立法審議会に初めて1人の代表を送り,同年ケニア・アフリカ人同盟(KAU)が結成され,47年ケニヤッタがKAU党首に就任して,民族運動は活発となった。50年代初期に各地でテロ事件が相次ぎ(マウマウの反乱と呼ばれた蜂起がその最大のもの),植民地政府は52年戒厳令をしいてケニヤッタを含む200名のKAU指導者をマウマウ団関係者の名目で逮捕した。…
【マウマウの反乱】より
…東アフリカのイギリス植民地ケニアにおいて1950年代に起こった,キクユ族を中心とするイギリス統治反対の武力闘争。ケニア・アフリカ人同盟(KAU)の漸進主義にあきたりない急進派は,51年ころよりホワイト・ハイランドの農業労働者やキクユ地域の貧農の間に闘争組織を拡大したが,これを植民地政府はマウマウMau Mauという名の秘密結社が存在すると考え,その禁止を布告した。52年10月に政府は非常事態宣言を発し,ケニヤッタほかKAUの指導層を逮捕するとともに,本国から派遣されたイギリス正規軍によってゲリラ戦術を展開する反乱勢力を鎮圧した。…
※「ケニア・アフリカ人同盟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」