世界大百科事典(旧版)内のザール規約の言及
【ザールラント】より
…53年5月20日のザール協定修正によりわずかの緊張緩和がもたらされ,54年10月23日のアデナウアーとマンデス・フランスのパリ会談への道を開いた。この会談で西ヨーロッパ連合の枠内でザールラントの〈ヨーロッパ化〉をはかるザール規約Saarstatutが結ばれたが,これに対して親仏派と親独派との対立が激化し,55年10月23日の住民投票で投票者の68%がザール規約に反対したためホフマン内閣は退陣した。12月18日の州議会選挙で親独派が勝利し,56年10月27日の西ドイツとフランスのザール契約Saarvertragにより,57年1月1日以降西ドイツに併合され,今日に至っている。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」