ジーベンファイファー,P.J.(読み)じーべんふぁいふぁー

世界大百科事典(旧版)内のジーベンファイファー,P.J.の言及

【ウィーン体制】より

…1814‐15年のウィーン会議で,イギリス,フランス,ロシア,プロイセン,オーストリアの五大国が中心となってヨーロッパの政治的再編がはかられたが,その後ヨーロッパ諸国の勢力均衡を利用しつつ,オーストリア宰相メッテルニヒが中心となって推し進めた,48年革命まで続く政治体制をいう(ドイツ史ではとくに,1848年の三月革命以前のこの時代を三月前期Vormärzとよぶ)。その政治的原理は復古的保守主義であった。…

【ハンバハ集会】より

…1830年のフランス七月革命,ポーランド蜂起を契機に再燃したドイツ各地での自由と統一を求める運動を背景として,32年5月27~30日に,ドイツ西部ノイシュタット・アン・デル・ワインシュトラーセ近郊のハンバハ城址に,ドイツのほとんどすべての都市の代表と近隣の手工業者,農民約3万人を集めて行われた大衆集会。この集会の目的は,参加者たちが自由と統一のために闘うみずからの意志を全ドイツに表示し,今後の方策を協議することにあったが,すでに反体制派の最も尖鋭な部分が共和主義化していた1830年代の状況を反映して,共和主義的傾向を代表するジーベンファイファーP.J.Siebenpfeiffer,ウィルトJ.G.A.Wirth等と自由主義的立場を保持したF.シューラー等とのあいだの明確な見解の相違が顕在化する場ともなった。【松岡 晋】。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」