バフリー・マムルーク朝(読み)ばふりーまむるーくちょう

世界大百科事典(旧版)内のバフリー・マムルーク朝の言及

【マムルーク朝】より

…すでに16世紀初頭からオスマン帝国との間に確執を生じていたマムルーク朝は,1516年マルジュ・ダービクMarj Dābiqの戦でセリム1世に敗れてシリアを失い,翌年カイロを占領されて王朝は滅びた。 スルタンを頂点とするマムルーク体制を支えていたのは奴隷出身のマムルーク軍人であり,バフリー・マムルーク朝時代にはトルコ人,モンゴル人,クルドが中心であったのに対して,ブルジー・マムルーク朝時代にはカフカス出身のチェルケス人が主力を占めるに至った。彼らは奴隷商人によって購入され,カイロの軍事学校を卒業すると,やがて功績に応じて十人長,四十人長,百人長へと昇進し,非マムルーク騎士団の司令官や地方総督などの要職に抜擢された。…

※「バフリー・マムルーク朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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