世界大百科事典(旧版)内のヒクソス問題の言及
【ヒクソス】より
…地方領主の中ではヒクソス系の第16王朝(小ヒクソス)と土着の第17王朝(首都テーベ)が有力であった。前2千年紀のオリエント世界に吹き荒れていた民族移動の波がエジプトに及んだもので,複数の民族の混合体であるが,王朝を形成した民族については北西セム系のアモリ人説とフルリ人説があり,王朝創設の事情についても傭兵として実力を蓄えた後クーデタによって政権を奪取したとする説と,馬と戦車に代表される圧倒的な軍事力を背景に一気に侵入・征服したとする説との対立があり(いわゆる〈ヒクソス問題〉),現在はアモリ人説とクーデタ説が有力である。 ヒクソスの出現は古代エジプト史の転換点を示す。…
※「ヒクソス問題」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」