世界大百科事典(旧版)内のフレゼリクの言及
【オレンボー朝】より
…1448‐1863年(ノルウェーでは1814年まで)。ドイツのオルデンブルクOldenburgに発する伯爵家のクリスティアンChristian(のち1世)が,1448年にデンマーク王に推戴され,開祖となり(在位1448‐81),2人の息子ハンス(在位1481‐1513),フレゼリク1世(在位1523‐33)から2系統のオレンボー家が発する。前者はクリスティアン2世(在位1513‐23)の死によって断絶し,後者はフレゼリク6世(在位1808‐39)まで続く。…
【デンマーク】より
…次王ハンスHans(在位1481‐1513)は,79年にコペンハーゲン大学を設立した。フレゼリク1世Frederik I(在位1523‐33)は,ルターのもとに学んだデンマークの修道士タウセンHans Tausen(1494‐1561)がもたらしたルター主義を保護し,これによってデンマークの〈宗教改革〉が始まった。没後その子クリスティアン3世(在位1534‐59)の王位継承が混乱の中で貴族会により1年間拒絶されたが,ユトランドの貴族らは彼を支持した。…
【オレンボー朝】より
…1448‐1863年(ノルウェーでは1814年まで)。ドイツのオルデンブルクOldenburgに発する伯爵家のクリスティアンChristian(のち1世)が,1448年にデンマーク王に推戴され,開祖となり(在位1448‐81),2人の息子ハンス(在位1481‐1513),フレゼリク1世(在位1523‐33)から2系統のオレンボー家が発する。前者はクリスティアン2世(在位1513‐23)の死によって断絶し,後者はフレゼリク6世(在位1808‐39)まで続く。…
【デンマーク】より
…次王ハンスHans(在位1481‐1513)は,79年にコペンハーゲン大学を設立した。フレゼリク1世Frederik I(在位1523‐33)は,ルターのもとに学んだデンマークの修道士タウセンHans Tausen(1494‐1561)がもたらしたルター主義を保護し,これによってデンマークの〈宗教改革〉が始まった。没後その子クリスティアン3世(在位1534‐59)の王位継承が混乱の中で貴族会により1年間拒絶されたが,ユトランドの貴族らは彼を支持した。…
【オレンボー朝】より
…1448‐1863年(ノルウェーでは1814年まで)。ドイツのオルデンブルクOldenburgに発する伯爵家のクリスティアンChristian(のち1世)が,1448年にデンマーク王に推戴され,開祖となり(在位1448‐81),2人の息子ハンス(在位1481‐1513),フレゼリク1世(在位1523‐33)から2系統のオレンボー家が発する。前者はクリスティアン2世(在位1513‐23)の死によって断絶し,後者はフレゼリク6世(在位1808‐39)まで続く。…
【グルベア】より
…デンマークの政治家。急進的政策を推進するドイツ人宰相ストルーエンセ打倒に成功したフレゼリク皇太子派の中心人物として,1772年以降実質的に宰相の地位に就いた(官職名としては1780以降)。前政策の反動として,ドイツ人官僚の排除,デンマークの絶対王制官僚機構の強化と言論の自由の規制が図られた。…
【ストルーエンセ】より
…その地位にあった16ヵ月の間に約2000の法令を発布し,自ら啓蒙主義改革者として言論の自由,拷問の禁止等をはじめ政治的・経済的にきわめて自由主義的色彩の濃い政策を敢行した。19世紀の経済的・社会的改革の先駆者として歴史的には評価されてはいるものの,時代の被抑圧者らの理解も得られることなく,その独裁的性向,性急すぎる改革,王妃との不貞,デンマーク語の不使用が,宮廷・軍部内の反対者を結集させるところとなり,第1王位継承者フレゼリクFrederik(1753‐1805)やグルベアを中心とする反ストルーエンセ派によって1772年1月17日逮捕され,4月28日斬首された。【村井 誠人】。…
※「フレゼリク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」