世界大百科事典(旧版)内のボレスワフの言及
【ハインリヒ[2世]】より
…オットー3世が子供を残さず早世した後,傍系から入って王位を継いだ。前任者オットー3世のイタリア重視政策に対し,ドイツ国内の体制固めに努め,とくにポーランド王ボレスワフ1世と争って,その進出を押さえ,ザクセン朝伝統の帝国教会政策を踏襲,バンベルク司教区を新設したほか,ゴルツェ修道院の主導する教会改革を支持した。【平城 照介】。…
【スタニスワフ】より
…修道士としてグニェズノ,パリで学び,ローマ教皇アレクサンデル2世によってクラクフの司教に任命された。当時のポーランドは内紛のため混迷状態にあり,しかも国王ボレスワフ2世Bolesław IIはキエフ・ロシアに遠征していた。スタニスワフは,国王の失脚をねらっていたウワディスワフに荷担していたらしい。…
【ポーランド】より
…隣国と支配圏が複雑に交錯している状態を想定すべきである)。 ミエシュコ1世の後を引き継いだボレスワフ勇敢王Bolesław Chrobry(966ころ‐1025)は,その支配地域を異教徒の住むプロイセン地方に広げるため,プラハ司教ボイチェフ(アダルベルト)に布教を依頼し,彼が殉教するとその事実をローマの教皇に伝えるとともにグニェズノ大司教座(マクデブルク大司教座からの独立を意味する),クラクフ司教座(マウォポルスカ地方の布教を担当),ブロツワフ司教座(シロンスク地方の布教を担当),コウォブジェクKołobrzeg司教座(ポモジェ地方の布教を担当)を設置する許可を得た。西暦1000年(最後の審判の年だと信じられていた),グニェズノに埋葬された聖人ボイチェフの墓に詣でた神聖ローマ皇帝オットー3世は,大司教座の設置とともにボレスワフ勇敢王に王冠を授けている(教皇の認可を得るのは1025年)。…
【ポーランド】より
…隣国と支配圏が複雑に交錯している状態を想定すべきである)。 ミエシュコ1世の後を引き継いだボレスワフ勇敢王Bolesław Chrobry(966ころ‐1025)は,その支配地域を異教徒の住むプロイセン地方に広げるため,プラハ司教ボイチェフ(アダルベルト)に布教を依頼し,彼が殉教するとその事実をローマの教皇に伝えるとともにグニェズノ大司教座(マクデブルク大司教座からの独立を意味する),クラクフ司教座(マウォポルスカ地方の布教を担当),ブロツワフ司教座(シロンスク地方の布教を担当),コウォブジェクKołobrzeg司教座(ポモジェ地方の布教を担当)を設置する許可を得た。西暦1000年(最後の審判の年だと信じられていた),グニェズノに埋葬された聖人ボイチェフの墓に詣でた神聖ローマ皇帝オットー3世は,大司教座の設置とともにボレスワフ勇敢王に王冠を授けている(教皇の認可を得るのは1025年)。…
【ポーランド】より
…隣国と支配圏が複雑に交錯している状態を想定すべきである)。 ミエシュコ1世の後を引き継いだボレスワフ勇敢王Bolesław Chrobry(966ころ‐1025)は,その支配地域を異教徒の住むプロイセン地方に広げるため,プラハ司教ボイチェフ(アダルベルト)に布教を依頼し,彼が殉教するとその事実をローマの教皇に伝えるとともにグニェズノ大司教座(マクデブルク大司教座からの独立を意味する),クラクフ司教座(マウォポルスカ地方の布教を担当),ブロツワフ司教座(シロンスク地方の布教を担当),コウォブジェクKołobrzeg司教座(ポモジェ地方の布教を担当)を設置する許可を得た。西暦1000年(最後の審判の年だと信じられていた),グニェズノに埋葬された聖人ボイチェフの墓に詣でた神聖ローマ皇帝オットー3世は,大司教座の設置とともにボレスワフ勇敢王に王冠を授けている(教皇の認可を得るのは1025年)。…
※「ボレスワフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」