世界大百科事典(旧版)内のママリズムの言及
【アルピニズム】より
…日本には1897年ごろからとり入れられ,志賀重昂の《日本風景論》の影響をうけ,1905年小島烏水らによって日本最初の山岳会(後の日本山岳会)が創設された。アルピニズムは処女峰の登頂からバリエーション・ルートの登攀(とうはん)へ,国内の山から海外の山へ,とくにヒマラヤ,アンデスの登山へと進み,技術的にはより困難な登攀の中に喜びを見いだすママリズム(イギリスの登山家ママリーが1880年代に提唱実践した新登頂主義)の影響をうけ,装備の改良と併行して不可能とされた垂直以上の壁の登攀も可能にしていった。地球上の山岳がすべて登攀されても,技術と装備の発達とともにアルピニズムはいよいよ発展を遂げるであろう。…
【登山】より
…同時に新しい山々を求めカフカス,アンデスなどに目を向け,カフカスのエリブルス東峰(5621m)は1829年にK.ハシロフ,西峰(5642m)は74年イギリスのF.グローブ,アンデスの最高峰アコンカグア(当時7035m)は97年イギリスのE.A.フィッツジェラルド隊,ニュージーランドのクック(3764m)は94年,アフリカのキリマンジャロ(5895m)は1889年,アラスカのマッキンリー南峰(6191m)は1913年に初登頂された。19世紀の終りに活躍したイギリスの登山家A.F.ママリーはより困難なルートからの登山を提唱し,スポーツ登山はその困難さの中に喜びを見いだすと説き,これはママリズムとして近代のアルピニズムのおもな思想となった。 ヒマラヤは,18世紀ごろからキリスト教の宣教師やインドの測量局員などが足を踏み入れていたが,純粋な登山を目的にヒマラヤを訪れたのはイギリスのW.W.グレアムで,1883年ガルワールおよびシッキムの7000m近い数峰を登り,95年にはママリーがナンガ・パルバット(8125m)で消息を絶った。…
【ママリー】より
…1871年ころからマッターホルンのツムット稜,エギーユ・ベルト西面,グレポンなど困難な登山を行い,頂上のみをめざす登山とちがって,より困難なルートから心身の極限を求めて登るということを心がけた。後にこれはママリズムとして,登山家たちの間の新しい思潮となり,多くの影響を与えた。1888年カフカスのディフタウ初登などを行い,95年ヒマラヤのナンガ・パルバットのディアミライ氷河で行方不明となった。…
※「ママリズム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」