世界大百科事典(旧版)内のミュレーの敗戦の言及
【ペドロ[3世]】より
…ペドロ3世即位時のアラゴン連合王国は外に向けての新たな発展の可能性を模索していた。ミュレーの敗戦(1213)で南フランス進出の道が閉ざされ,隣国カスティリャとのアルミスラ条約(1244)によってバレンシア以南への版図拡大も阻まれて,残るのは地中海だけだった。 1282年,〈シチリアの晩鐘〉で知られる蜂起で,従来のアンジュー家の支配を拒否したシチリア島民は,ペドロ3世に島の統治を要請した。…
【モンフォール】より
…パリ盆地の一角モンフォール・ラモーリーに居城をもつフランス王の直臣。シモン4世ともいう。その妻が相続したイギリスの領地によってレスター伯とも呼ばれる。第4回十字軍に参加し,ベネチア人の奸策に加担することを拒んで,パレスティナに向かう。のちインノケンティウス3世により宣布された南フランス異端討伐のアルビジョア十字軍に従軍(1209)。1209年,カルカソンヌの攻囲戦で頭角を現し,果断な戦術家として評価され,選ばれて十字軍の指揮者となり,ベジエを攻略,ベジエとカルカソンヌの支配者レーモン・ロジエから奪取した両子爵領を領有した。…
※「ミュレーの敗戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」