世界大百科事典(旧版)内の《ヤーコポ・オルティスの最後の手紙》の言及
【イタリア文学】より
…そしてモンティと同じように,一時期はナポレオン1世に解放者としての夢を託しながらも,U.フォスコロは,故国ベネチアがオーストリアに併合されるや,激動する時代の行方を鋭く見つめながら,イギリスに亡命して極貧のうちにロンドン郊外に客死した。書簡体の長編小説《ヤーコポ・オルティスの最後の手紙》(1802)において,フォスコロは祖国の愛と女性の愛に二重に裏切られて自殺する青年の姿を描いたが,流転の生活のなかにあって,詩人は統一以前のイタリアの文学的伝統を大きな視野におさめ,パビア大学修辞学教授時代(1808‐09)からの考察を進めつつ,異郷にありながら,今日のイタリア文学史の基礎を打ち立てた。とりわけ,当時は,ペトラルカやボッカッチョに比べてむしろ低く評価されていたダンテの文学的価値をあるべき姿に置いた功績は大きい。…
【フォスコロ】より
…イタリアの抒情詩人で,アルフィエーリと並ぶ前期ロマン派の作家。本名はニコロNiccolò。イオニア海の小島ザンテに,ギリシア人を母,ベネチア人を父として生まれる。幼少時代をベネチアで過ごす。早熟で,モンティ風の悲歌やアルフィエーリ風の悲劇《トリエステ》などを早くから発表。ナポレオン戦争に際しては,イタリアの解放者としてのボナパルトをたたえるオードを捧げている。血気さかんで,1797年カンポフォルミオの和議により祖国ベネチア共和国が滅びると,北イタリア共和国軍に身を投じて,対オーストリア戦役に加わる。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」