ラッシー朝(読み)らっしーちょう

世界大百科事典(旧版)内のラッシー朝の言及

【アラビア半島】より

…ハールーン・アッラシードは23年間のカリフ在位中,9回メッカ巡礼を行い,そのたびごとに莫大な金品を市民に贈ったことで有名である。だが,ヒジャーズ地方を除いてアッバース朝の統治の実はあがらず,やがて9世紀の半ばごろイエメンのサーダにザイド派のラッシー朝が自立し,その後サヌアに移り,断続を繰り返しながら1962年のクーデタまで続いた。9世紀末から10世紀初めにかけて,イスマーイール派の活動もイエメンで活発となり,同じころバフラインを中心とする東アラビアでは,カルマト派が擬似国家(894~11世紀末)を建設した。…

【イエメン】より

…9世紀の末からイスマーイール派の活動が活発になったが,その主勢力は北アフリカに移ってファーティマ朝を開いた。そのあとイエメンでは,イスマーイール派のスライフṢulayḥ朝(1047‐1138)が勢力を強め,紅海沿岸のティハーマのナジャーフNajāḥ朝(1021‐1159)を破り,1063年にはラッシー朝をサーダに追ってサヌアに都し,一時はヒジャーズをも侵略したが,最後はズー・ジブラに都を移し,同じイスマーイール派のズライーZuray‘朝(1138‐74)に支配権を奪われた。アイユーブ朝を建設したサラーフ・アッディーンは,弟トゥーラーンシャーTūrānshāhにイエメン征服を命じ,タイズに都するアイユーブ朝(1174‐1229)が成立した。…

【ザイド派】より

…イスラムのシーア派の一派で,アリーの曾孫ザイドZayd b.‘Alī(?‐740)の名に由来する。ザイドは十二イマーム派第4代イマームの子として生まれ,穏健な兄,第5代イマーム,ムハンマド・アルバーキルとは異なって,積極的な政治活動によってウマイヤ朝から政権をシーア派に奪取しようと企て,メディナからシーア派の本拠クーファに移って同志を募り,740年に同地で反乱を起こしたが,数日後に鎮圧され戦死した。…

※「ラッシー朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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