世界大百科事典(旧版)内のルートウィヒ[3世](チューリンゲン方伯)の言及
【チューリンゲン】より
…次いでカール大帝は,804年スラブ人に対する防衛線をザーレ川と定め,チューリンゲンを辺境伯領とした。カール大帝の孫ルートウィヒ2世は,トラクルフをチューリンゲン公に封じ,その子孫は908年まで辺境伯を称している。同年この地はザクセン大公(リウドルフィング家)によって奪われたが,同家のハインリヒ1世がドイツ国王に,さらにその息子オットー1世が神聖ローマ皇帝となったため,またこの間ドイツ人の居住地域がザーレ川を越えてはるか東方に進出したためこの地は辺境伯領としての意義を失い,むしろドイツ領の中核となった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」