世界大百科事典(旧版)内のレオポルト[1世](神聖ローマ皇帝)の言及
【スペイン継承戦争】より
…オーストリア・ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝レオポルド1世(在位1657‐1705)はこれを認めず,直ちにフランスと国交断絶したが,この遺贈にはフィリップがフランス王位への要求権をいっさい放棄するという条件がついていたので,かねがねスペイン領土の継承に関心をもっていたイギリスとオランダは,当面これを黙認する態度をとった。しかるに翌01年,ルイ14世がさきの遺言に反してフェリペ5世のフランス王位要求権を主張,さらにスペイン植民地におけるフランス商人の特権をフェリペに認めさせたことから,イギリスとオランダは硬化し,皇帝レオポルト1世と結んでフランス,スペインと戦端を開くにいたった。まもなくプロイセン,ハノーファーなどのドイツ諸邦もこの対仏連合に加わり,バイエルンはサボイア家とともにフランス側についた。…
【ハプスブルク家】より
…しかしオーストリアでは,王家に残された皇帝位と反宗教改革の勝利が皇帝崇拝に聖人崇拝を結びつけ,たび重なるマドリードとの同族結婚もあってウィーンの宮廷文化は花開き,王家の権威も高まった。皇帝レオポルト1世Leopold I(在位1658‐1705)が83年再びウィーンを包囲したトルコ軍を撃退,全ハンガリーを確保してから,ウィーンはハプスブルク・ドナウ帝国の中心となり,芸術を愛好するバロックの君主たちを生んだ。スペイン系がカルロス2世(在位1665‐1700)で断絶し,スペイン継承戦争が勃発すると,レオポルト1世の次子カール6世も継承権を要求する。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」