世界大百科事典(旧版)内のワーリーの言及
【ヘディーウ】より
…ペルシア語で〈支配者〉を意味し,古くから若干のイスラム系王朝で君主の称号として用いられていた。オスマン帝国では,1841年以来エジプトのワーリー(総督)職をムハンマド・アリーの一族が世襲することを認めていたが,67年にスルタン,アブデュルアジーズは,ムハンマド・アリーの孫のイスマーイール・パシャに新たにヘディーウの称号を与えた。ヘディーウは,宮廷儀礼のうえでは,オスマン帝国のサドラザム(大宰相)やシェイヒュル・イスラム(シャイフ・アルイスラーム)と同格とみなされていたが,3者が同席した場合には,この2人の次に席を占めた。…
【ムハンマド・アリー朝】より
…メフメト・アリー朝ともいう。その公式な政体は,1914年まではオスマン帝国の属州(統治者の正式名称はワーリーwālī,1867年以後ヘディーウ),1914年から22年まではイギリス保護国(同,スルタン),そして22年以降は王国(同,マリク)。 1840年のロンドン四ヵ国条約締結は,ムハンマド・アリー一族によるエジプト総督の世襲化の道を開いたが,このことは同時に,ムハンマド・アリーによる国内産業独占政策の放棄と,西欧資本主義に対するエジプト国内市場の開放をも意味した。…
※「ワーリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」