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…この勢力を南紀派という。もう1人は前水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の第7子で,一橋家を相続していた一橋慶喜(よしのぶ)であった。慶喜を推したのは,斉昭のほか福井藩主松平慶永,薩摩藩主島津斉彬,阿波藩主蜂須賀斉裕,宇和島藩主伊達宗城,土佐藩主山内豊信ら雄藩の大名と,幕府の海防掛であった大目付土岐頼旨,勘定奉行川路聖謨,目付永井尚志,同岩瀬忠震,同鵜殿長鋭,田安家家老水野忠徳らであった。…
…12代家慶(いえよし)がペリー初度来航の1853年(嘉永6)に死ぬと,次の家定は病弱で非常時の将軍にふさわしくないうえに子供がないため,継嗣問題が切実になった。家慶は生前,水戸の徳川斉昭(なりあき)の第7子を愛して一橋家の養子に入れていたが,実子の家定を廃してその一橋慶喜(よしのぶ)を後継者と決めるほどの勇断は下せないまま世を去った。越前藩主松平慶永(よしなが),薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)らが,この一橋慶喜を擁立する運動を起こした。…
…1862年(文久2)初頭から,京都での勢力を強めた薩摩・長州・土佐3藩の尊王攘夷派は,朝廷を動かして幕府を攘夷の立場に立たせようとした。この結果,5月,攘夷貫徹のための幕政改革の一環として,一橋慶喜を将軍後見職に,松平慶永を大老に登用せよとの勅諚が出た。勅使大原重徳は島津久光の兵を伴って江戸へ下り,幕府に勅諚を伝えた。…
…江戸幕府15代将軍。烈公斉昭(なりあき)を父として水戸徳川家に生まれたが,12代将軍家慶(いえよし)に見込まれて1847年(弘化4)一橋家を相続した。家慶には実子の家祥(家定)を廃して,慶喜に後を継がせるつもりがあったと想像される。しかしその措置を講ずる余裕がないままペリー来航の恐慌状態下に家慶が死ぬと,13代将軍となった家定の後嗣をめぐって大きな政争が起こり,慶喜は改革派の大名や幕臣から能力ある将軍候補として推され,保守血統主義派にかつがれた紀州の慶福(よしとみ)(家茂)と対立関係に入った(将軍継嗣問題)。…
※「一橋慶喜」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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