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徳川慶喜 とくがわ よしのぶ

美術人名辞典の解説

徳川慶喜

江戸幕府十五代将軍公爵。水戸藩主徳川斉昭の七男。字は子邦、興山と号する。一橋家を継ぐ。十三代将軍家定の継嗣問題で家茂と争い敗れるが、将軍後見役となり、幕権の維持・公武合体政策を進める。家茂歿後、将軍となり幕政改革を行なうが、慶応3年大政奉還の際、隠退し駿府に移る。大正2年(1913)歿、77才。

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デジタル大辞泉の解説

とくがわ‐よしのぶ〔トクがは‐〕【徳川慶喜】

[1837~1913]江戸幕府第15代将軍。在職1867~1868。斉昭の七男。一橋家を相続。将軍継嗣問題では家茂に敗れ、安政の大獄では隠居謹慎を命じられた。桜田門外の変以後は家茂の後見職をつとめ、家茂の死後、江戸幕府最後の将軍となった。慶応3年(1867)大政奉還し、翌年江戸城を明け渡した。

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百科事典マイペディアの解説

徳川慶喜【とくがわよしのぶ】

江戸幕府15代将軍(1866年−1867年)。水戸徳川斉昭の七子。一橋家養子。尊攘(そんじょう)・幕政改革派に擁され家茂(いえもち)と将軍継嗣を争ったが実現せず(将軍継嗣問題),1858年安政の大獄の際に蟄居(ちっきょ)を命じられた。
→関連項目江戸開城江戸時代王政復古(日本)公議政体論小御所会議徳川家茂西周戊辰戦争明治維新ロッシュローマ字運動

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

徳川慶喜 とくがわ-よしのぶ

1837-1913 江戸幕府15代将軍。在職1867*-68*。
天保(てんぽう)8年9月29日生まれ。常陸(ひたち)水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の7男。母は徳川吉子(貞芳院)。一橋家をつぎ,文久2年将軍後見職として徳川家茂(いえもち)を補佐。その死後慶応2年将軍となり幕政の改革をはかるが,3年大政を奉還し将軍職を辞任。4年鳥羽・伏見の戦いで敗れ,江戸開城後は水戸ついで駿府(すんぷ)で謹慎した。明治2年謹慎を解かれたが,以後表舞台にはたたず,放鷹(ほうよう),油絵,写真などの趣味に生きた。大正2年11月22日死去。77歳。幼名は七郎麿。初名は昭致(あきむね)。字(あざな)は子邦。
【格言など】予を殺す者は薩長の徒ではなく,幕臣どもの日なた臭い幕臣意識だ

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朝日日本歴史人物事典の解説

徳川慶喜

没年:大正2.11.22(1913)
生年:天保8.9.29(1837.10.28)
徳川15代将軍,最後の征夷大将軍。水戸藩主徳川斉昭の7男に生まれ,一橋家に迎えられる。ペリー来航の衝撃以来強力な指導者を待望する声が高かった。時の将軍徳川家定は病弱で子がなく,将軍継嗣が問題となる。「英明」と評され,親藩・外様の有志大名および朝廷に支持され有力候補となるが,疎族の水戸徳川の出身という理由で譜代門閥から抵抗を受けた。安政5(1858)年4月譜代筆頭井伊直弼が大老に就任,徳川宗家と血脈の近い慶福(家茂)を継嗣として公表。7月これに反対する一橋支持者の処分があり,連座して登城禁止。家茂が14代将軍となり,翌年8月隠居・謹慎に処せられる。桜田門外の変後に謹慎解除,文久2(1862)年7月,朝廷と島津久光の要請により,幕命により一橋家を再相続,将軍後見職となる。 文久3年1月上洛,朝幕間の融和を図るが尊攘運動の攻撃にさらされ失敗,江戸に帰還。8月18日の政変ののち上洛,有志大名と共に朝議参与。国内政治の安定を図るが久光と対立を深め,参与会議解散後の元治1(1864)年3月将軍後見職を辞任,新設の禁裏守衛総督に任命される。以来,関白二条斉敬,朝彦親王と提携して朝廷に勢力を扶植。京都守護職会津藩主松平容保,京都所司代桑名藩主松平定敬を配下とし独自の権力を構築,一会桑政権である。第1次長州征討を経て慶応1(1865)年閏5月将軍家茂が上洛・参内,大坂城に入る。9月薩摩藩の反対をおして長州再征の勅許を得る。10月兵庫開港問題を契機として幕府閣僚との対立が激化,家茂は将軍辞表を提出。幕臣からの嫌悪をかわし家茂を説得,また薩摩藩の抵抗を抑え条約勅許を得る。だが幕臣の嫌悪は消えず有志大名との関係は疎遠となり,翌慶応2年1月,一会桑を敵とする薩長連合が成立した。6月長州征討開始,7月家茂逝去,8月前将軍の死を公表し戦闘を中止し宗家を相続。12月将軍に就任した。 慶応3年ロッシュの意見を容れながら幕政改革に着手したが情勢は切迫,5月上洛の有志大名と協調を図るが成らず,薩摩藩との対立は決定化する。10月,土佐藩の建白を受け,公議政体を創設して徳川勢力の温存・拡大を図り大政奉還を行う。だが諸侯は上洛せず,政情混迷のなか王政復古の政変があり,大坂城に入る。翌慶応4年1月1日討薩表を掲げ兵を京に進めたが,鳥羽・伏見の戦に敗れ大坂を脱出。海路江戸に帰る。2月恭順の態度を示し上野寛永寺に屏居。江戸開城に伴い水戸へ,次いで静岡に謹慎。時に32歳。翌年謹慎免除。以来,狩猟,謡曲,囲碁などを楽しみ日を送る。西洋の文物に関心を寄せ,豚肉を好んで豚一様と呼ばれたのは一橋当主のころ,晩年にはパンとミルクに親しみ,写真撮影に熱心だった。同13年将軍時代と同等の正二位に叙せられ,同31年参内し明治天皇と面会,同35年公爵。<参考文献>渋沢栄一『徳川慶喜公伝』,同編『昔夢会筆記』

(井上勲)

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防府市歴史用語集の解説

徳川慶喜

 徳川15代将軍です。1866年に将軍の地位につきますが、海外からの圧力と国内の倒幕[とうばく]の動きに負け、1867年に将軍の地位を朝廷[ちょうてい]に返し、江戸幕府は終わります。

徳川慶喜

水戸藩主の子として生まれ、一橋[ひとつばし]家の養子となりました。江戸幕府十五代将軍となり、幕府を立て直そうとしましたが、討幕の勢いを止めることはできず、大政奉還を行いました。

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デジタル大辞泉プラスの解説

徳川慶喜

山岡荘八の歴史小説。1974年刊行。

徳川慶喜

1998年放映のNHKの大河ドラマ。全49回。原作は、司馬遼太郎の小説『最後の将軍 徳川慶喜』。江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の半生と、幕末の動乱・大政奉還までを描く。脚本:田向正健。音楽:湯浅譲二。出演:本木雅弘菅原文太石田ひかり、若尾文子ほか。

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世界大百科事典 第2版の解説

とくがわよしのぶ【徳川慶喜】

1837‐1913(天保8‐大正2)
江戸幕府15代将軍。烈公斉昭(なりあき)を父として水戸徳川家に生まれたが,12代将軍家慶(いえよし)に見込まれて1847年(弘化4)一橋家を相続した。家慶には実子の家祥(家定)を廃して,慶喜に後を継がせるつもりがあったと想像される。しかしその措置を講ずる余裕がないままペリー来航の恐慌状態下に家慶が死ぬと,13代将軍となった家定の後嗣をめぐって大きな政争が起こり,慶喜は改革派の大名や幕臣から能力ある将軍候補として推され,保守血統主義派にかつがれた紀州の慶福(よしとみ)(家茂)と対立関係に入った(将軍継嗣問題)。

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大辞林 第三版の解説

とくがわよしのぶ【徳川慶喜】

1837~1913) 江戸幕府第一五代、最後の将軍(1866~1867)。水戸藩主斉昭の七男。幼名七郎麿・昭致。1847年一橋家を継ぐ。62年将軍家茂の後見職として公武合体策を推進。将軍となってのち、フランスの援助を受けて幕政改革をはかったが、挽回はならず大政を奉還し、江戸開城後は水戸で謹慎し、徳川宗家の家督を田安亀之助(徳川家達)に譲り駿府に移った。のち公爵。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

徳川慶喜
とくがわよしのぶ

[生]天保8 (1837).9.29. 江戸
[没]1913.11.22. 東京
江戸幕府 15代将軍(在職 1866~68)。徳川斉昭の 7男。母は有栖川宮王女登美宮吉子。幼名は七郎麿。弘化4(1847)年一橋家を相続。将軍徳川家定の死後,14代将軍の継嗣をめぐって慶福(のち徳川家茂)を擁立する井伊直弼ら紀伊派と対立したが敗れた(→将軍継嗣問題)。安政の大獄に際しては隠居謹慎を命じられたが,井伊の死後将軍後見役となった。家茂の死後,慶応2(1866)年12月5日将軍宣下。内政,外交にあたり,フランス公使レオン・ロッシュの助言をいれて幕政の改革を行ない薩長と対抗したが,同 3年10月14日に政権の朝廷への返還を上表,翌 15日に大政奉還の勅許を得た。しかし 12月9日,討幕派とその同調者が優勢な御前会議で王政復古の大号令が発せられた(→小御所会議)。同 4年1月鳥羽・伏見の戦いで敗北を喫し,朝廷に恭順。4月,家督田安亀之助(→徳川家達)に譲って駿府に移った。1902年公爵,1908年勲一等旭日大綬章。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

徳川慶喜
とくがわよしのぶ
(1837―1913)

江戸幕府第15代、最後の将軍。水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の第7子で幼名七郎麿(しちろうまろ)、または昭致(あきむね)。字(あざな)は子邦、刑部卿(ぎょうぶきょう)を名のる。天保(てんぽう)8年9月29日、小石川の江戸藩邸に生まれる。水戸弘道(こうどう)館で学んだのち、1847年(弘化4)一橋(ひとつばし)家を継いで慶喜と改名した。
 ペリー来航後、将軍継嗣(けいし)問題で改革派雄藩の松平慶永(まつだいらよしなが)ら一橋派に推され、南紀派の推す徳川慶福(よしとみ)(家茂(いえもち))と争ったが、1858年(安政5)4月井伊直弼(いいなおすけ)が突如、大老職に就任したあと、慶福を世子に決定したため敗れた。また勅許を待たずに日米修好通商条約に調印したことに対し、慶喜は、実父徳川斉昭、尾張(おわり)藩主徳川慶勝(よしかつ)らとともに不時登城して大老を詰責したために、登城を止められ、翌年の安政(あんせい)の大獄で隠居謹慎の処分を受けた。しかし、1860年(万延1)井伊直弼が桜田門外に暗殺されてのち、幕政の宥和(ゆうわ)方針によって謹慎を解かれ、さらに1862年(文久2)勅使大原重徳(おおはらしげとみ)と島津久光(しまづひさみつ)が東下して幕政改革を迫った際に、勅旨により、一橋家の再相続を許され、同時に将軍後見職に任ぜられた。
 かくて事態は一変し、慶喜は、政事総裁職についた松平慶永(よしなが)とともに幕政の頂点にたつことになったが、改革は難航した。1863年、朝廷の攘夷(じょうい)督促に対して自ら開国を説くべく上洛(じょうらく)して朝廷と折衝したが、かえって尊攘派勢力の工作によって攘夷期日を5月と約束させられて江戸に帰った。同年八月十八日の政変により、京都から尊攘派が排除されると再度上洛し、松平容保(まつだいらかたもり)、同慶永、山内豊信(やまうちとよしげ)、伊達宗城(だてむねなり)とともに、朝議参与を命じられた。しかし、あくまで幕府中心の改革を主張する慶喜は他の参与と対立し、参与会議も失敗に終わる。1864年、慶喜は参与と将軍後見職を辞任して禁裏守衛総督につき、禁門(きんもん)の変に活躍、翌1866年(慶応2)の第二次長州征伐で東軍が敗戦を重ねるうち、家茂(いえもち)が死去したため、12月、第15代将軍職を継いだ。
 フランスと結んで洋式軍制改革を行い、幕府の制度も改革して成果をあげたが、大勢挽回(ばんかい)はならず、1867年10月、討幕の密勅が下ると同時に大政を奉還した。なおも諸藩連合の政治体制のなかで徳川氏の権力を維持することを策したが、12月、討幕派に動かされた朝議が王政復古を宣し、年が明けると鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いにおいて幕府軍は大敗した。慶喜は海路江戸に帰還し、フランス公使ロッシュらの再挙の勧めを拒否して上野寛永寺(かんえいじ)に移り、謹慎の意を表した。江戸開城後は水戸で謹慎し、新政府の命によって徳川宗家の家督を田安亀之助(たやすかめのすけ)(家達(いえさと))に譲り、駿府(すんぷ)に移った。1869年(明治2)謹慎を許され、のち公爵に列した。大正2年11月22日没。[井上勝生]
『渋沢栄一著、藤井貞文解説『徳川慶喜公伝』全4巻(平凡社・東洋文庫) ▽渋沢栄一編、大久保利謙校訂『昔夢会筆記――徳川慶喜公回想談』(平凡社・東洋文庫)』

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