朝日日本歴史人物事典 「上総広常」の解説
上総広常
生年:生年不詳
平安末期の武士。源頼朝挙兵時の関東の大豪族。上総(千葉県)の在庁官人平常澄の子。父が源義朝を育てたことから,義朝に従って上洛し,保元1(1156)年の保元の乱に参加。その後,房総半島にあって房総の平氏の中心として一族を束ねていたが,治承3(1179)年11月の平清盛のクーデタの結果,上総が平氏の家人藤原忠清の知行になるにおよんで,京の平氏と対立するところとなり,清盛に勘当される。治承4年に源頼朝が挙兵すると,上総国内の武士団を率いて参陣,その数2万騎の大軍で,これにより情勢は頼朝優位を決定づけた。そのとき,もしも主人としての器が頼朝にないならば,殺そうと考えていたという。同年10月富士川の戦で頼朝が勝利して京を目指したときには関東にとどまることを主張し,頼朝を木曾義仲のような失敗から救う。一貫して東国にあって武家政権を築くことを主張して「ただ坂東にかくてあらんに」などと称し,朝廷との関係を重視する頼朝と対立。また頼朝に下馬の礼をとらなかったことから御家人のなかにも反感が生まれ,かくて頼朝が朝廷に従うことになった寿永2(1183)年の末に嫡子能常と共に謀反の咎により頼朝の命を受けた梶原景時に討たれた。しかし無実であることがその後判明して復権。<参考文献>福田豊彦『千葉常胤』
(五味文彦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報