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平広常 たいらのひろつね

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

平広常
たいらのひろつね

[生]?
[没]寿永2(1183).12. 鎌倉
平安時代末期の上総を中心勢力とした豪族。上総権介。千葉氏。保元・平治の乱には源義朝に従う。治承4 (1180) 年8月源頼朝が挙兵して石橋山の戦いに敗れて安房に逃れたとき,兵2万騎を率いてはせ参じ,頼朝の関東における軍事力の確立に尽力した。しかしのち謀反の疑いで頼朝の命によって梶原景時に謀殺された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

平広常 たいらの-ひろつね

?-1184* 平安時代後期の武将。
世襲の上総権介(かずさのごんのすけ)をつぎ,上総と下総(しもうさ)の一部を支配。保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱では源義朝の軍にくわわる。治承(じしょう)4年挙兵した源頼朝に,2万の大軍をひきいてしたがう。常陸(ひたち)(茨城県)の佐竹氏攻めでは中心となった。のち謀反の疑いをうけ,寿永2年12月22日殺された。通称は介八郎。

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世界大百科事典 第2版の解説

たいらのひろつね【平広常】

?‐1183(寿永2)
平安末期の武将。上総国衙を掌握する東国屈指の武士団の首長。通称上総介広常。常澄の子。保元・平治の乱では源義朝の軍勢に加わった。1180年(治承4)9月,源頼朝の招きに応じて,兵2万騎を率いて参会した。10月富士川の戦に参加し,頼朝の上洛の企てを千葉常胤,三浦義澄らとともに諫止し,常陸佐竹氏の討伐を主張,11月佐竹義政を謀殺し,また佐竹秀義の金砂城を攻略するなど,戦功が多かった。《吾妻鏡》によれば頼朝に対しても下馬の礼をとらぬ独立不羈の精神の持主といわれる。

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世界大百科事典内の平広常の言及

【上総国】より

…【吉村 武彦】
【中世】
 1180年(治承4)伊豆に挙兵して石橋山合戦に敗れた源頼朝は海上より安房に逃れ,房総の武士の支援を受け,再挙の手がかりをつかんだ。平忠常の子孫上総権介平広常,千葉介常胤はともに頼朝を支持して鎌倉幕府の開設に功をたてた。広常が当国周東,周西,伊南,伊北,庁南,庁北の武士2万騎を率い,隅田河辺の頼朝の陣に参上したとき,頼朝は彼の遅参を叱責したので,広常はかえって頼朝の将としての器に敬服したという。…

【武蔵七党】より

…これは党の構成員が独立的で,それぞれに武家棟梁と主従関係を結んでいたことを示す。これと対照的なのは上総や常陸で,上総では上総介平広常が,常陸では佐竹氏が国内を統合して大武士団の首長となっていたため,党的武士団はみられない。保元の乱のときにも,上総に関しては〈上総には介八郎〉と広常1人が記載されているにすぎない。…

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