平広常(読み)たいらのひろつね

改訂新版 世界大百科事典 「平広常」の意味・わかりやすい解説

平広常 (たいらのひろつね)
生没年:?-1183(寿永2)

平安末期の武将上総国衙を掌握する東国屈指の武士団の首長通称上総介広常。常澄の子。保元平治の乱では源義朝軍勢に加わった。1180年(治承4)9月,源頼朝の招きに応じて,兵2万騎を率いて参会した。10月富士川の戦に参加し,頼朝上洛の企てを千葉常胤,三浦義澄らとともに諫止し,常陸佐竹氏討伐を主張,11月佐竹義政を謀殺し,また佐竹秀義の金砂城を攻略するなど,戦功が多かった。《吾妻鏡》によれば頼朝に対しても下馬の礼をとらぬ独立不羈の精神の持主といわれる。また《愚管抄》によれば頼朝に対し〈ナンデウ朝家ノ事ヲノミ身グルシク思ゾ。タヾ坂東ニカクテアランニ,誰カハ引ハタラカサン〉と述べたといわれ,そこには東国独立国家樹立の思想がうかがわれる。1183年,頼朝によって謀叛嫌疑をかけられ殺されたが,広常が上総一宮に捧げた願文によって忠誠が明らかとなり,頼朝はこれを悔やんで,投獄されていた弟らを助命した。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「平広常」の解説

平広常
たいらのひろつね

?~1183.12.-

平安末期の武将。常澄の子。上総介(かずさのすけ)広常・介八郎と称する。上総介を世襲し,上総国を中心とした大武士団を統率。保元・平治の乱では源義朝に従い,その後平家に属した。1180年(治承4)源頼朝の挙兵に際していったんは拒否したが,2万騎の兵を率いて参陣したという。富士川の戦後,上洛を主張する頼朝を諫め,常陸国の佐竹氏を討つことを主張し,その中心的役割をはたした。のち謀反の疑いをかけられ,頼朝に殺された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「平広常」の解説

平広常 たいらの-ひろつね

?-1184* 平安時代後期の武将。
世襲の上総権介(かずさのごんのすけ)をつぎ,上総と下総(しもうさ)の一部を支配。保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱では源義朝の軍にくわわる。治承(じしょう)4年挙兵した源頼朝に,2万の大軍をひきいてしたがう。常陸(ひたち)(茨城県)の佐竹氏攻めでは中心となった。のち謀反の疑いをうけ,寿永2年12月22日殺された。通称は介八郎。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「平広常」の意味・わかりやすい解説

平広常
たいらのひろつね

[生]?
[没]寿永2(1183).12. 鎌倉
平安時代末期の上総を中心勢力とした豪族。上総権介。千葉氏。保元・平治の乱には源義朝に従う。治承4 (1180) 年8月源頼朝が挙兵して石橋山の戦いに敗れて安房に逃れたとき,兵2万騎を率いてはせ参じ,頼朝の関東における軍事力の確立に尽力した。しかしのち謀反の疑いで頼朝の命によって梶原景時に謀殺された。

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世界大百科事典(旧版)内の平広常の言及

【上総国】より

…【吉村 武彦】
【中世】
 1180年(治承4)伊豆に挙兵して石橋山合戦に敗れた源頼朝は海上より安房に逃れ,房総の武士の支援を受け,再挙の手がかりをつかんだ。平忠常の子孫上総権介平広常,千葉介常胤はともに頼朝を支持して鎌倉幕府の開設に功をたてた。広常が当国周東,周西,伊南,伊北,庁南,庁北の武士2万騎を率い,隅田河辺の頼朝の陣に参上したとき,頼朝は彼の遅参を叱責したので,広常はかえって頼朝の将としての器に敬服したという。…

【武蔵七党】より

…これは党の構成員が独立的で,それぞれに武家棟梁と主従関係を結んでいたことを示す。これと対照的なのは上総や常陸で,上総では上総介平広常が,常陸では佐竹氏が国内を統合して大武士団の首長となっていたため,党的武士団はみられない。保元の乱のときにも,上総に関しては〈上総には介八郎〉と広常1人が記載されているにすぎない。…

※「平広常」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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