中ソ関係(読み)ちゅうそかんけい/ちゅうごくそれんかんけい

知恵蔵 「中ソ関係」の解説

中ソ関係

1989年5月、長い間の中ソ対立を経て30年ぶりに北京で開催されたゴルバチョフ・94年秋の広島アジア大会への台湾代表・徐立徳行政院副院長の来日に中国抗議。トウ小平(トン・シァオピン)会談及びゴルバチョフ・趙紫陽(チャオ・ツーヤン)会談の結果、両国間では完全な正常化を図ることが確認された。中ソ国境地帯を新たな経済圏として発展させること、黒竜江省などを中心とする中国東北部の開発協力、両国間の貿易についても積極的に取り組む方針が表明され、ハルビンを起点とする中ソ国境河川航路も90年7月に開設された。ソ連は5万数千人のモンゴル駐留ソ連軍の全面的な撤兵開始を決定、中蒙関係も一挙に改善されたが、「世紀のサミット」だったこの中ソ首脳会談直後に民主化弾圧の血の日曜日事件(第2次天安門事件)が起こったため、中ソ関係は一時足踏み状態を余儀なくされた。90年4月末に実現した李鵬(リー・ポン)首相訪ソによる中ソ首脳会談に次いで、91年5月には江沢民(チアン・ツォーミン)中国共産党総書記が、中国共産党トップとしては34年ぶりに訪ソし、中ソ東部国境協定に調印するなど、関係改善が促進された。同年夏の「ソ連政変」および同年末のソ連邦解体によって、中国は自国の「ソ連・東欧化」を強く警戒したが、92年12月にはエリツィン・ロシア大統領が訪中するなど、中国とロシアの関係はその後も順調に発展。93年秋には中ロ間に軍事協力協定が結ばれて軍事交流への道が開かれた。94年9月、江沢民・中国国家主席の訪ロによるエリツィンとの会談では、西部国境が画定ハバロフスクに近い黒瞎子(ヘイシアズ)島やアルグン川の島などを除き、中ロ間の国境は全面的に画定した。98年3月には、東シベリアで自動車通過所も開通するなど、中国からの労働力・資本の導入や国境貿易も増大した。2000年7月にはタジキスタンで開かれた中央アジア首脳会談でウラジーミル・プーチン新大統領と江沢民主席の首脳会談が行われ、米国の単独覇権反対で一致、プーチンは同月訪中するなど、中ロ関係の緊密化が進んだ。01年7月にはモスクワで中ロ善隣友好協力条約が調印され、同年6月には中ロと中央アジア諸国との上海協力機構(SCO)が成立した。04年10月には、交渉が難航した東部国境が画定し、64年以来続いていた国境線問題を解決した。05年8月には中国の山東半島とその海域で大規模な中ロ合同軍事演習が行われるなど、中ロの協調関係が目立っているが、他方ではロシア側に中国から労働人口が流出することへの警戒感も潜在している。

(中嶋嶺雄 国際教養大学学長 / 2008年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「中ソ関係」の意味・わかりやすい解説

中ソ関係
ちゅうそかんけい

中ロ関係

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