朝日日本歴史人物事典 「中御門経任」の解説
中御門経任
生年:寛喜2(1230)
鎌倉後期の公卿。後嵯峨・亀山上皇の近臣。父は吉田(藤原)為経。母は宮仕の娘と卑しい出身であったが,後嵯峨上皇の近習となって異例の出世を遂げて,文永6(1269)年には蔵人頭から公卿となり,「寵愛抜群,官禄只思ふが如し,天下の権ただこの人に在り」と称された。院の分国の美濃やその他の諸国を知行し,その「富有陶朱に均しく有らん」と富裕をうたわれた。そのため後嵯峨法皇が亡くなったときには出家するかと思われたが,案に相違して出家せずに骨を首に掛けて浄金剛院に納めた。その後は亀山上皇に仕えて院への経済的な奉仕の面で活躍,建治3(1277)年に大納言となり,弘安6(1283)年からは12年間にわたって大宰府を知行している。<参考文献>五味文彦『武士と文士の中世史』
(五味文彦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報