世界大百科事典(旧版)内の九六城の言及
【都城】より
… 三国時代から南北朝にかけて,北中国の都市でもっとも繁栄したのは,洛陽であった。華化政策をすすめた北魏の孝文帝が,5世紀末に平城から洛陽に遷都した当初は,漢以来の都城をそのまま踏襲したので,〈九六城〉とよばれたように,ほぼ南北9里,東西6里(1里は約435m)の縦長の矩形であったが,6世紀初頭に多数の人夫を動員して都城を拡張し,東西20里,南北15里の横長の矩形とし,それまでの〈九六城〉を内城,拡張部分を外郭とし,外郭内には居住区として1辺300歩の方形の坊(里)を220設定したのであった。 この北魏洛陽城の都城形式にならって,漢以来の長安城の南東の竜首原の地に新たに建設され始めたのが,6世紀末の大興城であり,7世紀初めの唐代に完成して長安城とよばれた。…
※「九六城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」