九条三寅(読み)くじょうみとら

世界大百科事典(旧版)内の九条三寅の言及

【承久の乱】より

…1221年(承久3)後鳥羽上皇とその近臣たちが鎌倉幕府討滅の兵を挙げ,逆に幕府軍に大敗,鎮圧された事件。
[前史]
 幕府成立の当初に厳しい対立・抗争を展開した公家・武家両勢力も,その後相対的には,融和・安定の関係へ向かいつつあるかに見えた。しかし,鎌倉殿源頼朝の晩年から頼家嗣立期には,源通親,丹後局の策謀によって親幕派勢力が京都政界から放逐される事件が起こり,幕府内部でも頼家と御家人,有力御家人相互間の対立・抗争が表面化した。…

【摂家将軍】より

…鎌倉中期,摂関家出身の将軍で,九条頼経・頼嗣父子を指し,藤原将軍ともいわれる。1219年(承久1)将軍源実朝が暗殺されて後,左大臣九条道家の子の三寅が,源頼朝の遠縁にあたるという理由で,将軍として鎌倉に迎えられた。三寅は当時2歳であり,頼朝の後家の北条政子が政務を行ったが,25年(嘉禄1)政子の死後,三寅は元服して頼経と称し,翌年,正式に征夷大将軍に任命された。44年(寛元2)子の頼嗣に将軍職を譲って後も頼経は隠然たる勢力を持ち,46年北条時頼が執権となると,北条一門の名越光時が頼経に接近し,執権の地位を奪おうとする事件がおこり,頼経は京都に追放された(宮騒動)。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」