五ヶ商人(読み)ごかしょうにん

世界大百科事典(旧版)内の五ヶ商人の言及

【近江商人】より

…伊勢山越商人は保内商人,蒲生郡石塔商人,神崎郡小幡商人,愛知郡沓掛商人で編成され,四本(しほん)商人といわれたが,四本の内部では対立が継起していた。室町時代末期,保内商人は琵琶湖の東の小幡・八坂(はつさか)・薩摩・田中江,湖西の高島南市の五ヵ所のいわゆる五ヶ商人を相手に,湖西の今津から若狭小浜に至る九里半街道の商品搬送をめぐって訴論を繰り返した。これは室町時代前期の市座の専売権の独占の問題から,後期には街道における特定商品の輸送権の独占へと,中世の座商業が変質していることを示している。…

【九里半街道】より

…琵琶湖北岸西側の今津港と福井県(若狭国)小浜港を結ぶ中世の商業交通路。若狭街道ともいう。今津から石田川沿いに保坂へ,そこから水坂峠を越え杉山から北川上流に出て県境を越え熊川に,さらに北川沿いに下って日笠から小浜市に入る。中世には,小浜に集まる若狭の塩や北国の海産物が,この街道を経て湖北の今津や高島に運ばれ,さらに湖上舟運によって,湖東の各舟着場および大津港に運ばれ,大津を経て京都へももたらされた。湖北と若狭湾岸を結ぶ道として海津・塩津~敦賀間の七里半越も重要であるが,大永年間(1521‐28)以降,戦国大名浅井氏がしだいに興起して塩津・海津地方を押さえるに至ったので,その後九里半街道の商況は,より活発になった。…

※「五ヶ商人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」