世界大百科事典(旧版)内の伊邏廬城の言及
【クチャ】より
…漢・唐並行の時期にはクーチーとよばれ,中国では亀茲(きじ),丘茲,屈茲,邱慈,屈茨,苦叉,曲先,俱支囊などと表記された。647年に唐が滅ぼすまで王姓は〈白〉で,都城は漢・南北朝に延城,唐代に伊邏廬城と記され,アーリヤ人に属する民族がインド・ヨーロッパ語系のトカラB語を用いていた。豊富な鉱産・農産物があり,錦,毛織物も産出,その実体はキジル石窟等の石窟壁画人物にうかがえる。…
※「伊邏廬城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」