世界大百科事典(旧版)内の伝法大会の言及
【金剛峯寺】より
…12世紀初頭には,従来の三綱(さんごう)に代わって年預職がおかれ,預,行事とともに〈三沙汰人〉と称され,教団の自治機関が整った。ついで覚鑁(かくばん)が出て,真然のときに創設された大伝法会を中興して大伝法院を建立し,春秋2季のおのおの50日間の伝法大会を行った。覚鑁は1134年(長承3)東寺長者の金剛峯寺兼務を排して,みずから本寺(金剛峯寺),末院(大伝法院)の座主に就任し,金剛峯寺検校良禅を追放し,弟の信恵を補任したため,東寺と金剛峯寺衆徒の反感をかい,40年(保延6)根来(ねごろ)寺に移った。…
【寺事】より
…また反面,多宗派に共通の法要形式を同一の目的で勤修する場合でも,行事の名称は必ずしも同一とはならない。たとえば,僧侶の学識試第を目的として竪義論義を勤修する場合,行事の名称を華厳宗では方広会(ほごえ),法相宗では慈恩会(じおんね),天台宗では法華大会(ほつけだいえ),真言宗豊山派では伝法大会(でんぼうだいえ)(伝法会)と称する類である。
[寺事の規模と法要のかたち]
寺事催行の規模はさまざまである。…
※「伝法大会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」