佐竹与義(読み)さたけ・ともよし

朝日日本歴史人物事典 「佐竹与義」の解説

佐竹与義

没年:応永29.10.13(1422.10.28)
生年:生年不詳
室町時代前期の武将。常陸国久米城(茨城県久慈郡)城主佐竹義篤の弟師義の子。刑部少輔,上総介に任ず。佐竹山入家3代目の当主。兄言義の早世により家督を継ぐ。師義以来蓄積した実力と京都将軍との繋がりを背景に,鎌倉府と結び付いた佐竹宗家と競合する。とりわけ上杉竜保丸(義人)の佐竹入嗣を機に対立を激化させ,応永23(1416)年,上杉禅秀が鎌倉公方足利持氏に反旗を翻すと(上杉禅秀の乱)大掾満幹らと共に禅秀方に荷担,持氏を助ける佐竹義人らを攻撃。乱後も執拗に抵抗を続けたが持氏の激しい討伐にあい,鎌倉比企谷の法華堂で子や家臣13人と共に自害,佐竹一族の主導権獲得を狙った野心的一生を終える。

(市村高男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

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