世界大百科事典(旧版)内の修正主義論争の言及
【窮乏化説】より
…ここにマルクスの窮乏化説ないし窮乏化法則といわれる論旨が端的に示されている。
[窮乏化説をめぐる論争]
マルクスの窮乏化説をめぐり,19世紀末のドイツ社会民主党の内部で,修正主義論争の一環として重大な論争がされた。その代表的理論家E.ベルンシュタインによれば,現実の資本主義の発展は,より少数の資本家と多数の労働者とへの両極分解とそれによる労働者の窮乏化をうながして社会主義革命を必然化する方向にない。…
【経済学説史】より
…
[古典的論争と研究]
その後,マルクス経済学は,《資本論》の理論体系に残された問題点の究明をめぐる原理的考察と,その理論体系によってマルクス以後の資本主義の発展をどのように解明しうるかをめぐる検討との2面に,事実上大きく分かれて発展してきている。後者の面では修正主義論争と帝国主義論の形成が重要な意義をもっている。 すなわち,マルクスが1883年に,ついでその緊密な協力者F.エンゲルスが95年に亡くなると,その有力な後継者の一人とみられていたE.ベルンシュタインが,マルクスの学説,とりわけ資本家と労働者とへの社会の両極分解と労働者の〈窮乏化〉の理論(窮乏化説)は,19世紀末以降の資本主義の新たな発展にそぐわなくなっていると主張し,ドイツ社会民主党にマルクス主義から改良主義への修正を要求した。…
【修正主義】より
…こうした批判が生じるに至った背景には,世紀転換期における資本主義の新たな展開の下で露呈してきた大衆社会化状況と,労働組合の発展などに象徴される労働者階級の状態の変貌とを挙げることができよう。ベルンシュタインの主張に起因する〈修正主義論争〉は,1903年の社会民主党ドレスデン大会における修正主義断罪の決議で一応の終結をみる。しかし,K.カウツキーに代表される当時の正統派は,その後レーニンという新たな正統によって断罪され,さらに最近ではスターリン批判以後のソ連共産党が中国から〈現代修正主義〉として批判された時期もあった。…
【マルクス経済学】より
… しかし,このような客観的なマルクス経済学の方法ないし体系が形を整えるまでには,《資本論》全体についての詳細な研究と議論および現実の資本主義についての各種の分析と議論が不可欠であり,したがってそれには長い年月が必要であった。
【修正主義論争】
マルクスが《資本論》第1巻を完成した後の1870年代ころから,世界資本主義の様相はしだいに変化しはじめた。景気循環の変容,株式会社の急速な発達,経済政策の基調変化(自由主義から帝国主義への移行)がその主要な特徴であったが,これらの事実を背景に,まず19世紀末から第1次大戦前までのドイツ社会民主党内部で,《資本論》をめぐって激しい議論が闘わされた。…
【ルクセンブルク】より
…98年,市民権を得てベルリンに移り,ドイツ社会民主党に入党。折からの修正主義論争に《社会改良か革命か》(1899)をもって参加,ベルンシュタインを反駁,《ライプチヒ民衆新聞》《ノイエ・ツァイト》などで左派の理論家として論陣をはった。1905年ロシア革命が起こるとワルシャワに潜入,逮捕されたが,釈放後《大衆ストライキ,党および組合》(1906)を書き,大衆の自発的行動に対する信頼から制度化した党・組合を批判した。…
※「修正主義論争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」