世界大百科事典(旧版)内の《兄とその妹》の言及
【島津保次郎】より
…マック・セネット,チャップリン,ロイドなどアメリカのスラプスティック喜劇を積極的に模倣しながら,やがて1924年,関東大震災後の復興蒲田撮影所で,新所長城戸四郎の下に,〈日常生活の身辺雑記風の話の中にペーソスやユーモアをたたえた明るい内容〉の映画をつくり,ホームドラマの原典の一つになった《村の先生》(1925),サラリーマン喜劇《日曜日》(1924),《ボーナス》(1928)等々を経て,トーキー初期の《隣の八重ちゃん》(1934)で小市民映画の完成をみたとされる。小津安二郎監督《東京の合唱》(1931),《生れてはみたけれど》(1932),五所平之助監督《生きとし生けるもの》(1934),《人生のお荷物》(1935),内田吐夢監督《限りなき前進》(1937)等々とともに小市民映画の頂点に立つ代表作とみなされ,島津の代表作ともいえる《兄とその妹》(1939)を最後に松竹(大船撮影所)から東宝に移った。その後は〈島津らしい闊達(かつたつ)さ〉を失ってさほど見るべき作品もなく,45年,胃癌のため49歳で死去した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」