公車上書(読み)こうしゃじょうしょ

世界大百科事典(旧版)内の公車上書の言及

【康有為】より

…続いて孔子を創教者になぞらえた《孔子改制考》21巻(1898)を著した。 これよりさき,1895年,彼は会試受験のため入京したが,日本に敗れた清朝政府が過酷な講和条件を受諾しようとしているのに憤激し,1200名の挙人の署名を集めて和議拒否の上書(公車上書)を行った。これ以後,強学会など学会の名を借りた政治結社と雑誌出版により政治改革の必要を鼓吹した。…

【戊戌変法】より

…広州に帰った彼は,新たに公羊学(くようがく)を中心とする今文学にもとづき,西欧近代思想ことに進化論と仏教とで補強した改革思想,すなわち〈大同〉の政治哲学を構築した(《大同書》)。 95年,時あたかも日清戦争に敗れて屈辱的な講和条約を強いられた状況を背景にして,再び会試受験のために北京入りした康有為は,講和拒否・遷都・変法の3項目からなる上書を,在京の挙人1200名あまりの連署をそえて提出した(公車上書)。この上書もまた要路の官僚に阻まれて光緒帝には届かなかったが,彼自身は進士に合格した。…

※「公車上書」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」