世界大百科事典(旧版)内の六角承禎の言及
【六角氏式目】より
…近江国南半を領した大名六角氏が1567年(永禄10)4月に制定した67ヵ条よりなる分国法。〈義治(よしはる)式目〉とも呼ばれるが,原題は〈置目〉であり,諸伝本には六角義治の署判のものだけでなく,義治とその父六角承禎(じようてい)(六角義賢)の連署のものがあり,当時の実情からいって後者が原形を正しく伝えているので,この名称はふさわしくない。この分国法は1563年の観音寺騒動という内乱,つづいて66年の浅井長政との戦いにおける惨敗という六角氏危急存亡のときに,領国の支配体制再建を目的として制定された。…
【六角義賢】より
…南近江の戦国大名。六角定頼の嫡男。1539年(天文8)能登守護畠山氏の娘と婚姻,同年上洛し,従五位下・左京大夫となる。はやくより父と行動し,40年伊勢へ出陣,46年には足利義藤(義輝)の元服に列席した。その後義藤を助け,再三京に出兵し,幕府政局に関与した。52年父の死により家督をつぐ。57年(弘治3)には養女を本願寺顕如に入れ,伊勢に出兵し,また日置流弓術を伝授された。同年末に定頼の七周忌を行い,剃髪して承禎と称し,家督を長男義弼(義治)に譲った。…
※「六角承禎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」