世界大百科事典(旧版)内の再興日本美術院の言及
【官展】より
…1912年,夏目漱石が文展の没個性的な傾向や実質のない権威主義を批判して書いた《文展と芸術》はよく知られている。そして14年,二科会と再興日本美術院が在野の団体として旗あげするのは,文展の閉鎖性に理由がある。また18年の国画創作協会の結成も文展批判のあらわれであった。…
【日本美術院】より
…彫刻と洋画の部も設けられた。こうして再興日本美術院は東洋的な理想主義に立って官展に対立する在野の一大勢力として美術界の一角を大きく占めることになる。ただし洋画部は20年に,彫塑部は61年に廃止された。…
【明治・大正時代美術】より
…再興の宣言に,〈自由の天地〉で〈吾ら自己の芸術〉をめざすとうたい,大正デモクラシーやヒューマニズムの流れの中で,少数精鋭の団結により,個性尊重の精神をみなぎらせる精進を重ねた。再興日本美術院は小林古径,前田青邨,富田渓仙(1879‐1936),中村岳陵,小川芋銭(うせん)(1868‐1938),北野恒富(1880‐1947),速水御舟,川端竜子,近藤浩一路(1884‐1962),郷倉千靱(せんじん)(1892‐1975),堅山南風(かたやまなんぷう)(1884‐1980)ら,数多くの個性的な日本画家を生み出し,大正から昭和にかけての日本画界を支える中核となった。なお院展洋画部からは,二科展に出品した関根正二とともに,日本の青春ともいうべき大正期の象徴的存在である村山槐多が出ている。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」