世界大百科事典(旧版)内の南朝鮮労働党の言及
【朝鮮民主主義人民共和国】より
…しかし,アメリカ軍の反攻で一時は国土の大部分を占領される戦局の激動のなかで,指導部内にも大いに動揺があり,そのことが,中国人民義勇軍の参戦をえて戦線を38度線付近まで押し戻し休戦協定の調印にいたって後の,深刻な党内闘争に尾を引いていった。まず休戦協定調印直後の53年8月に,朴憲永を中心とする南朝鮮労働党系幹部13名が逮捕され裁判のすえ11名が処刑された。これは分派闘争と朝鮮戦争の結果に対する責任をとらされたものとみられる。…
【朝鮮労働党】より
… 解放直後北朝鮮の共産主義者も,いち早くソウル中心に生まれた朴憲永らの朝鮮共産党の影響を受けていたが,1945年10月に金日成らを中心に独自の朝鮮共産党北朝鮮分局(最近の公式文献ではこれを朝鮮共産党北朝鮮組織委員会と呼び,あるいはこの時期に朝鮮労働党が創立されたとしている)が組織され,さらに46年8月広汎な勤労大衆を指導する必要から朝鮮新民党と合同して北朝鮮労働党が生まれた(このときから49年6月まで委員長は旧新民党の金枓奉(きんとほう)で,金日成は副委員長)。続いて南朝鮮でも46年9月朝鮮共産党・新民党・人民党の三者が合同して南朝鮮労働党が生まれ(委員長許憲),果敢な反米人民抗争,48年以後にはパルチザン抗争をも展開したが,厳しい弾圧の中で朴憲永ら主要な指導者はしだいに安全な北朝鮮に移るようになり,49年6月には南北の党が合体して朝鮮労働党(委員長金日成)として再発足した。朝鮮戦争後には南におけるその地下組織もまったく消滅した。…
【朴憲永】より
…光州付近の煉瓦工場労働者として解放を迎えると,組織を持つ強味で45年9月ソウル中心に再建された朝鮮共産党の主導権を握り,46年以降激烈な反米人民抗争を指導していく。あけひろげな大衆政治家というより冷徹な組織指導者型で,46年秋以後は逮捕を避けて北朝鮮に移り,そこから南朝鮮労働党(朝鮮労働党)の地下組織を指導する一方,48年朝鮮民主主義人民共和国創建とともに副首相兼外相となったが,朝鮮戦争停戦後の53年8月,突如〈アメリカのスパイ〉の名目で党を除名され,その指導下の南労党グループ李承燁ら12名の粛清裁判が進められた。その後55年12月分離された朴憲永自身の裁判があり,死刑宣告を受け処刑された。…
※「南朝鮮労働党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」