世界大百科事典(旧版)内の南都七郷の言及
【奈良[市]】より
…やがて奈良が正称とされ,南都(南京)は雅称となる。 1180年(治承4)平氏の南都焼討ちにあって諸郷の発達は頓挫したが,全盛の社寺の復興が進み,その工事に工匠,技芸の徒が多数来住したため,街地は倍旧の発展を示し,南都七郷(興福寺別当の直領で七つの親郷),東大寺郷,元興寺郷,春日社家郷,興福寺両門跡郷(両門跡とは一乗院,大乗院のことで,それぞれ多数の郷を擁する)が成立,おりから商工業も興って都市化が進んだ。一乗院門跡が北市,次いで大乗院門跡が南市を開いて14世紀には南北両市が栄えた(なお1414年(応永21)に興福寺六方衆が中市を開いた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」