《反乱史》(読み)はんらんし

世界大百科事典(旧版)内の《反乱史》の言及

【クラレンドン伯】より

…過激な報復を嫌い融和を旨としたため,かえって反発を買い,第2次英蘭戦争の失敗の責任を負わされて失脚,67年再度亡命した。2度の亡命中に執筆した《反乱史》(1702‐04)は,国王派側からの革命叙述として,トーリー史観の原点となった。なお,娘アンはヨーク公(ジェームズ2世)と結婚し,のちのイングランド女王2人(メアリーとアン)を産んだ。…

【ピューリタン革命】より


[革命の評価]
 イギリスにおいては,王政復古の直後から18世紀までは,この事件を〈大反乱Great Rebellion〉とみる国王派の立場からの把握が主流を占めた。これには王政復古体制の中心人物クラレンドン伯の《反乱史》(1702‐04)の影響が大きい。しかし18世紀後半以降,急進主義の運動が展開すると,17世紀史に対する再評価の気運が生まれ,当面の課題であった議会改革の先駆としてのこの闘争のもつ意義が見直されて,これまでの〈反乱〉に代わって〈内乱〉と呼ぶ傾向が強くなった。…

※「《反乱史》」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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