朝日日本歴史人物事典 「吉雄常三」の解説
吉雄常三
生年:天明7(1787)
江戸後期の蘭学者。阿蘭陀通詞吉雄耕牛 の孫。長崎に生まれる。字は伯元,諱は尚貞,名は俊蔵,尾張藩出仕後は常三。号は南皐,観象堂。文化13(1816)年30歳のとき,江戸からの帰途に名古屋の町医野村立栄 の弟子小川守中宅に滞在中に尾張藩医浅井貞庵の斡旋で藩の侍医となり,以来,翻訳や著作に従事,最先端の蘭学を講じて弟子の養成に尽力した。文政3(1820)年には翻訳の藩命を受け,同9年には2人扶持を給せられて藩士に列し,以後藩医としても天保10(1839)年には奥医師にまで栄進した。その業績は『和蘭内外要方』(1820)など医学のほか,地動説以後の天文学を講じた『遠西観象図説』(1823),農家のための『晴雨考』(文政・天保期),火薬の雷汞を使用する雷管銃について述べた『粉砲考』(1842ごろ)など多数ある。不幸にも雷管銃製作中に雷汞の爆発によって死亡。雷汞は衝撃に弱い不安定な物質で,幕府の秤量政策下では計量的化学実験は不可能に近く,常三の悲劇は不可避であった。<参考文献>吉川芳秋「尾張藩,南皐吉雄常三先生」(『日本医史学雑誌』1289,1290号),赤木昭夫『蘭学の時代』
(岩崎鐵志)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報