日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉雄俊蔵」の意味・わかりやすい解説
吉雄俊蔵
よしおしゅんぞう
(1787―1847)
江戸後期の蘭(らん)学者、蘭方医。長崎の人。名は尚貞、字(あざな)は伯元、または魯彦。南皐(なんこう)と号し、通称は俊蔵、のち常三(じょうさん)。吉雄耕牛(こうぎゅう)の孫にあたり、早くからオランダ医学・オランダ語を学び、さらに天文・暦学・砲術を修めた。1814年(文化11)羽栗洋斎(はぐりようさい)と名をかえて大坂に出て蘭学塾を開き、オランダ文法書『六格前篇(ぜんぺん)』を著した。1817年名古屋で開業、尾張(おわり)藩の侍医となり、翻訳局を開いた。さらにオランダ原書により化学を研究、ついに雷汞(らいこう)(雷酸水銀)の製造に成功して雷管をつくった。弘化4年、雷粉の実験中、暴発により死亡した。
[大鳥蘭三郎]