世界大百科事典(旧版)内の名古屋蕉門の言及
【荷兮】より
…その後,尾張蕉門の大立者としてふるまい,俳諧七部集第2の《春の日》,第3の《曠野(あらの)》を次々と編集し,名古屋は蕉門の一大拠点となった。しかし,絶えず新しみを求めて前進し続ける芭蕉に,荷兮を中心とする名古屋蕉門は,しだいに取り残された形となり,93年(元禄6)の荷兮編《曠野後集》では,序文に細川幽斎から西山宗因に至る古風の句をあげ,〈たゞいにしへをこそこひしたはるれ〉と述べて古風回帰を目指している。さらに,著名な蕉門俳人の句の見られない《ひるねの種》や《橋守》を編集して反芭蕉の立場をとるようになる。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」