世界大百科事典(旧版)内の国内城の言及
【広開土王】より
…また西方では395年に燕と戦闘を交え,410年には東夫余とも対抗してこれを討滅し領域を大いに拡張し,在位22年間を通して64城1400村を獲得したと碑文にある。いっぽう内政では,平壌に人戸をうつし,また九寺を建立して,次の長寿王が都を国内城(丸都城)から平壌にうつす基盤を整えた。王は国内城の王墓を守護する守墓人烟戸の制を改め,王が獲得した韓人・穢(わい)人をこれにあて,墓上に守墓人烟戸を銘記した碑を建てるようにした。…
【高句麗】より
…高句麗を構成した旧小国の王たちが,山上王を擁立して王位につけた。王の兄の発岐が一部の旧小国と結んで公孫氏に下ったので,山上王は王都を国内城に移し新国をたてた。このころ公孫氏は強大になり,楽浪郡を支配し,朝鮮南部や日本に勢力をのばすため,205年ごろ帯方郡を設置した。…
【輯安】より
…この地は,また高句麗の中期,長寿王15年(427)の平壌遷都までの,首都の所在地として知られる。現存する輯安県城は,20世紀の初めに大きく改築されているが,高句麗中期の国内城あるいは丸都城を継承したものである。県城は,1辺が約700mのほぼ方形の石築の城壁に囲まれている。…
【朝鮮美術】より
…なかでも素弁蓮華文瓦は日本との関連を示し,日本の初期仏教建築に与えた影響を認めることができる。
[高句麗]
高句麗は後1世紀ころ,鴨緑江中流の通溝に拠を構え,3世紀ころには国内(輯安)城と山城の子山城を築いたが,4世紀ころには大同江下流の平壌に都を遷した。初めは大城山一帯と安鶴宮を中心にしていたが,586年(平原王28)に平壌城を築いて都とした。…
※「国内城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」