世界大百科事典(旧版)内の堀直竒の言及
【長岡[市]】より
…市域は信濃川の扇状地面に位置する,県中部の中心都市で,上越新幹線,上越線,信越本線が通り,北陸自動車道,関越自動車道,国道8号,17号線の分岐点に当たる交通の要衝をなす。信濃川東岸にある中心市街地は近世,堀直竒(なおより)のあとを引き継いだ牧野氏の城下町として発展し,鉄道開通前は信濃川を利用する六日町~新潟間の中心的な河岸として繁栄した。1868年(明治1)の戊辰戦争で城下の80%を焼失したが,明治中期に東山油田が開発されてから復興した。…
【堀氏】より
…近世大名。清和源氏,藤原氏,菅原氏,大神氏などの諸姓に属する堀氏のうち,藤原姓利仁流で美濃厚見郡出自の堀氏が最も栄えた。美濃厚見郡茜部(あかなべ)を領した堀秀重の子久太郎秀政は織田信長に属して近江長浜を領し,ついで豊臣氏に従属,近江佐和山城主を経て1585年(天正13)越前北ノ庄18万石余を領し,その子秀治が98年(慶長3)越後春日山30万石余に転封し,その子忠俊の代の1610年改易されて絶家した。…
【堀直政】より
…安土桃山時代の武将。堀秀政,秀治の与力。監物と称する。1582年(天正10)明智秀満を近江坂本城に囲んだときの戦功と,84年長久手の戦の退き口の戦功とが著名である。堀秀治が98年(慶長3)越後に転封したとき,直政は堀氏与力のまま豊臣氏の判物で三条城で5万石を与えられ,蔵入地代官を兼ねた。子の直次,直寄も秀治に仕えたが,この両人は争い,1610年堀氏改易の原因をつくった。しかし直寄は罪せられず,子孫は繁栄した。…
※「堀直竒」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」