世界大百科事典(旧版)内の増哞の言及
【讃岐国】より
…しかし85年4~7月,豊臣秀吉が大軍をもって四国征伐を企てると長宗我部氏はもろくも降服,戦後処理として讃岐には秀吉の将仙石(せんごく)秀久が派遣されその支配が行われるに至った。 鎌倉末・南北朝から戦国時代は地方文化の時代でもあったが,代表的な建造物として坂出市神谷神社本殿,三豊郡豊中町本山(もとやま)寺本堂があり,真言の僧宥範(ゆうはん)や増哞(ぞううん)の活動にはいちじるしいものがあった。また山崎宗鑑の来住と活動も注目される。…
※「増哞」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」