世界大百科事典(旧版)内の大御所問題の言及
【寛政改革】より
…とくに解任直前には,定信は他の老中の意見をほとんど聞かず,幕閣から浮きあがっていたようである。定信解任の理由としてこのほかに,光格天皇が生父閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとし,定信がこれに反対した〈尊号一件〉,さらに将軍家斉が実父の一橋治済を大御所として江戸城に迎え入れようとしたのを,定信がいさめたいわゆる大御所問題により,家斉・治済と定信との対立が深刻化したことが挙げられる。しかし寛政改革を定信とともに推進してきた老中松平信明らは,定信解任後も幕閣にとどまっており,これら〈寛政の遺老〉により,文化末年ごろまで寛政改革路線は継承されている面が多い。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」