世界大百科事典(旧版)内の大東亜政略指導大綱の言及
【太平洋戦争】より
…そのため多くの犠牲者が出たが,タイとビルマを結ぶ泰緬鉄道工事の場合には,工事に携わった捕虜5万5000名のうち1万3000名,現地労働者約5万名のうち3万3000名が死亡したと言われている。一方東条内閣は,〈大東亜政略指導大綱〉(1943年5月31日御前会議決定)に基づき,ビルマ国(1943年8月1日)とフィリピン共和国(1943年10月14日)を名目的に〈独立〉させ,汪兆銘の中華民国政府とのあいだに日華同盟条約(1943年10月30日)を締結したのち,各傀儡国家の首脳を集め,43年11月5~6日に東京で大東亜会議を開催したが,具体的政策協定もまとまらないままに終わった。
【戦争終結と責任問題】
[戦争の終結]
連合国側は,勝利の見通しがつきはじめた1943年からたびたび首脳会談を開き,戦争終結と戦後処理問題を検討しはじめた。…
※「大東亜政略指導大綱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」