朝日日本歴史人物事典 「大槻朝元」の解説
大槻朝元
生年:元禄16(1703)
江戸中期の加賀(金沢)藩士。通称は伝蔵,のち内蔵允。父は同藩の持筒足軽であった大槻七左衛門。伝蔵はその3男で,享保1(1716)年に藩主前田綱紀の世子吉徳の御居問坊主として召し出され,同8年に吉徳が藩主となってからは士分に取り立てられ,さらに物頭並・組頭並へと昇進し,ついに家臣団の最高の格式である人持組となり,知行も3800石を給された。近習御用役を勤め,吉徳の信任を得て,前代以来の放漫な藩財政のひきしめなど藩政の立て直しに携わったが,重臣前田直躬や儒者の青地礼幹などの保守層からは,その側近政治に対して非難がむけられていた。延享2(1745)年に吉徳が急死するや失脚して越中五箇山に流刑に処せられ,寛延1(1748)年に配所で自殺した。事件の背後には吉徳の愛妾真如院と,前田直躬と結んだ善良院との大奥における確執があり,伝蔵と真如院には密通や主殺しの嫌疑がかけられ,有効な詮議もないままに多くの関係者が処刑された。この事件は「加賀騒動」として芝居にも仕立てられて喧伝され,伊達・黒田の騒動とともに江戸時代の三大御家騒動のひとつにかぞえられている。<参考文献>若林喜三郎『加賀騒動』
(笠谷和比古)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報