世界大百科事典(旧版)内の太泉映画の言及
【日本映画】より
…すなわち,松竹の大船および下加茂・太秦,東宝の砧,大映の多摩川(元日活)・大泉(元新興)および太秦(元日活と元新興)の各撮影所である。 このうち大映(1945年に大日本映画製作株式会社から大映株式会社に社名変更)の大泉撮影所は,戦時中に軍需工場に売却され,敗戦とともに閉鎖されていたが,1947年,貸しスタジオの太泉スタジオとなり,やがて太泉映画となって映画製作に乗り出した。大映は東京多摩川と京都太秦の東西撮影所で映画製作をつづけ,戦後映画史に大きな足跡を残したが,71年倒産し,東西撮影所は組合員管理下に置かれ,74年に会社が大映映画として再出発したのち,77年の合理化によって両撮影所は分離独立した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」