世界大百科事典(旧版)内の奥七郡の言及
【奥郡】より
…信濃では北部の更級,埴科,水内,高井などの諸郡を奥信濃といい,戦国時代にも信州奥郡,信之奥郡などの用例がある。また常陸でも,平安末・鎌倉初期,佐竹氏の支配下におかれた那珂東西,久慈東西,佐都東西,多賀など北部の諸郡を奥七郡といった。1166年(仁安1)飛驒国田畠所当進未注文では,奥郡は益田郡と並記されているので,吉城,大野郡をさすとみられる。…
【常陸国】より
…【飯田 瑞穂】
【中世】
[平安末期]
常陸国でも12世紀になると,荘園公領制が明確にその姿を現してくる。北部では,令制の多珂,久慈,那珂3郡は,多珂,久慈東,久慈西,佐都東,佐都西,那珂東,那珂西の7郡に分割され,総称して〈奥七郡〉と呼ばれた。7郡のうち北部5郡は佐竹氏一族の支配下にあったとみられる。…
※「奥七郡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」