世界大百科事典(旧版)内の寛容政策の言及
【寛容】より
…そして,宗派の併存が神聖ローマ帝国内においてはじめて公式に認められたのは,1555年のアウクスブルクの宗教和議においてであるが,それは力による抗争を政治的に解決しようとしたものであり,容認された宗派はカトリックとルター派だけであったし,しかも政治支配者がその領域内の宗教を決定するとされたという意味では,真の寛容の実現とはほど遠いものであった。寛容政策(内面的信仰の自由,礼拝の自由,裁判の平等,官職の解放など)が制度上ほぼ完全な形で最初に実現されたのは,1598年のナントの王令によってである。カルビニズムが急速に浸透したフランスにおいては,宗派間の争いが政治的対立と結びつき,しかも新教徒の側から抵抗権の主張が強く出されたこともあって,国を二分しての内乱が長期間にわたって争われるという事態(ユグノー戦争)が出現した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」