世界大百科事典(旧版)内の小倉戦争の言及
【小倉】より
…1732年(享保17)の大飢饉とちょうどそのころから始まった経済構造の変化によって小倉は衰微の方向に向かい,1845年(弘化2)には人口も1万余に減少した。66年(慶応2)の小倉戦争は小倉に壊滅的打撃を与えた。8月の長州軍の攻撃を前に藩は自ら小倉城を焼いて田川郡香春(かわら)に撤退,町人の多くも城下を脱出し,長く長州軍の占領下におかれた。…
【小倉藩】より
…その後52年(嘉永5)より家老島村志津摩らが藩政改革を実施して富国強兵をめざしたが,佐幕一辺倒の藩内にも彦山を中心に尊攘派の動きが目立った。66年(慶応2)の小倉戦争で長州軍の攻撃を支えきれず,みずから小倉城に火を放って田川郡香春(かわら)に撤退(のち仲津郡豊津に移る),小倉を長州軍に占領されたまま明治を迎えた。71年(明治4)7月企救郡を除く旧藩領は豊津県,千束領は千束県となり,企救郡は日田県の管轄となった。…
※「小倉戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」